瞑想について「瞑想の三つの本質」瞑想には、それがどのような技法であれ、そのなかに共通した本質がいくつかある。その本質的な要素はあらゆる瞑想法に必須なものだ。 その第一は、くつろいだ状態だ。マインドと闘わない、マインドに対して統制しない、精神集中をしない、いうことだ。 第二に、くつろいだ〈気づき〉とともに見守ること……何が起こっていようと、妨害することなく。マインドを、静かに、判断も評価もせずに、見守ることだ。 くつろぎ、見守り、判断を下さない。これが、その三点だ。すると、次第に、ゆっくりと、大いなる静寂が訪れてくる。内側の動きがすべて静まつてくる。あなたは存在する。だが、「私が存在する」という感覚はない。純粋な空間があるばかりだ。 百十二の瞑想法がある。私は、その瞑想法すべてについて話したことがある。それらは編成においては異なるが、根底では同じままだ。それは、くつろぎ、見守り、そして判断を下さないという態度だ。 「瞑想とは楽しみであるべきだ」 瞑想とは楽しみ、“あそび”であるべきだ。 それは仕事のようであってはならない。 あなたはそれを宗教人のようにやってはならない。 ギャンブラーのようにやりなさい。 遊ぶがいい、楽しみでやりなさい。 スポーツマンのようにやることだ。 ビジネスマンのようではなく……。 それは楽しみで遊びであるべきだ。 誰ひとりとして楽しみのために瞑想をするべきだ とはいわないが、だが私はそれをいう。 “The Empty Boat”~Osho~ 気づいていることは、努力するという問題ではない。 もし気づきのために努力するなら、 あなたは自分自身の内側に緊張をつくりだす―― あらゆる努力は緊張をもたらす。 もし気づきのために努力するなら、 あなたは自分自身と戦っている――戦う必要などない。 気づきとは、努力の副産物ではない。気づきとは、 手放しであることの芳香だ。気づきとは、 明けわたすことの、くつろぎの開花だ。 くつろいで、何もせずに、ただ静かに座る...... すると、気づきは起こりはじめる。それは、 どこかから引っぱり上げるものではないし、 どこかから持って来るものでもない。 それは、どこからともなくあなたに降り注ぐ。 あなた自身の源の内側から湧きあがる。 あなたはただ、静かに座っている。 Osho: Philosophia Perennis, Vol. 2, #4 |